ここでは戦後のカンガのお話を少しばかり。

 

第二次世界大戦後、日本製カンガの輸出は再開します。
日本製カンガの先駆者であった西澤商店は、当時いち早くバイヤーとして来日した旧取引き先であるORIENTAL EXPORTERS商会に要請によって、西澤司郎氏が同社顧問として就任したことで同社との取引が再開。
また、西澤司郎氏は米軍司令部経済科学局の繊維顧問として招かれ、繊維輸出全般にわたってさまざまな諮問や助言にあたっていたという背景もあり、貿易再会の道が開かれたのでした。1948年、民間貿易が許可された以降、日本からのカンガ輸出も順調に伸展していきました。

 戦後、輸出されるカンガの規格は、綿布40/s(番手)x40/s(番手)、116本(1インチ平方あたりの緯経糸本数)で、かなり薄いものでした。サイズは46インチx 66インチx 4x5(4枚綴りを5反)を1スコアと呼んでおり、通常、プリント最少量は300スコア(11、000ヤード)でした。

戦後カンガを生産していたのは、昭南工業(1943年和歌山の玉置捺染、新興捺染が合併して設立された染色工場、1994年に廃業した)、大同染工(後に大同マルタ染工、2003年東洋紡の100%小会社、2008年黒川工業へ譲渡)、大阪染工、東洋紡績、高瀬染工などです。
注1 日本繊維産業史(1958年)によれば、銅ローラーの円周が66インチの「カンガ―プリンティングマシーン」と呼ばれている特殊捺染機器は、当時、国内に10台あり、工場として和歌山昭南工業、和染工業、笠野染工、浜松日本形染、大阪染工、高瀬染工場、大同染工、日清紡績美合工場、大日本紡績山崎工場などと記載がある。この中で、中心となっていたのが、昭南工業と大同染工である。

これらの工場で生産されたカンガは西澤をはじめ、日綿実業(後ニチメン現双日)、東洋綿花(後トーメン、後豊田通商と合併)、伊藤忠商事、丸紅飯田(現丸紅)、八木商店(現ヤギ)などの商社によって東アフリカに輸出されました。
当時は、東アフリカだけでなく、アフリカンプリントは、西アフリカ、南アフリカまで輸出されていましたが、それぞれの地域別に輸出組合が作られていました。東アフリカについては、東和会という商社大手10社+船場専門商社数社で構成される組合が作られ、過剰輸出やダンピング防止のため、過去の実績に基づく数量割り当て、価格、堅牢度などの品質規格を決め、年間の輸出総量、各社数量割り当てを決定していました。ちなみに西アフリカについては西和会、南アフリカについて南和会が作られていました。

1950年代後半になると捺染技術の進展によって品質は数段と向上していきました。デザインについても、当初は、ムジと呼ばれる中央部に大きなモチーフが置かれ、ピンドと呼ばれるボーダーも単純な様式のものが多かったでしたが、少しずつムジ、ピンドともに凝ったデザインのものが増えるようになっていきました。
中央部に大きなモチーフのあるものはインナーデザインと呼ばれ、内陸部で人気が高く、センタ部分を簡略化ボーダー部分を重視したり、モチーフを6から8個と点在させるものはソーシャルカンガと呼ばれ、海岸地方の都市部で人気が高かったようです。

このデザインの好みの違いについては、かつてケニアのラム島で女性に聞き取り調査した際、同様のことを話していました。

デザインの製作方法は現地のバイヤーやデザイナーが描いた原案(ラフスケッチと呼ばれた)及びジナが日本に送られ、それを日本で仕上げ、再度現地側に送り最終チェックを受けて生産に入るか、あるいは商社内に擁する図案家や外部デザイナーが製作した原案を現地に送り、チェックしてもらうなどして製作されていました。現地のバイヤーやデザイナーからもデザインの修正や色の配色などの提案も事細かに伝えられ、この配色ごとの発注量も提示してきていました。


カンガのデザインは、限られたスペースである程度構図が決まっている中で完成させるためには、常に全体と部分とのバランスや、色による立体感な緻密に計算する必要があり、カンガデザインは、頭で描くデザインといわれていたそうです。

 

このように日本の染色工場や商社の活躍と現地のバイヤーやデザイナーの尽力によって、カンガ東アフリカで発展してきたのです。