2007年当時、私はカンガのルーツや歴史を巡ってさまざまな調査を行っていた。
文献調査は当然ながら、イギリス、オランダ、インドなどを訪れ、
19世紀から20世紀前半のカンガの歴史を探っていた。
その調査の一環として訪れたのがコモロだ。
コモロという名前をはじめて聞く人も多いことだろう。
マダガスカル島とモザンビークの間にある島国で、ンジャジジャ島(グランドコモロ島)、
ンズワニ島(アンジュアン島)、ムワリ島(モヘリ島)の3 島からなる。
これらにフランス領のマヨッテ島を加えてコモロ諸島とも呼ばれている。
古代魚に興味のある人は、この近隣の海でシーラカンスが捕獲されることで
コモロの名を知っているかもしれない。

私がコモロ諸島を訪れようと思ったのは、ある方からいただいた絵葉書がきっかけだった。
その方は、1950年から1960年代、「西澤」(日本からのカンガ輸出の先駆者である商社)で、
現地に出向いて日本製カンガの取引に携わっておられていた。
日本製カンガの歴史に関して何回も書簡のやりとりをし、
当時の様子について教えていただいていた。
どんな理由かは忘れたが、その方が送ってくださった古い絵葉書には、
アンジュアン島の女性たちが映っており、
まさにカンガの前駆体と同様の布を巻いていたのであった。
「おーっ。これはカンガのルーツと同じ布に違いない。ぜひ自分の目で確かめなくては」
といつもの調子で思い込み、コモロに向かったのであった。

◎カルタラ山、絶賛噴火中!!

ダルエスサラームから約2 時間。到着したモロニの空港は、
田舎の駅舎みたいな感じでがらんとしていた。
ダルエスサラームやナイロビの空港のように
タクシーの呼び込みがわらわらと集まってくることもない。
乗客はほとんど家族や知り合いが車で迎えに来ているようだった。
はて、困ったなと途方に暮れていいたら、どこからともなくやってきた
一人のタクシードライバーが声をかけてくれた。

タウンまでは、海岸沿いの道を約20分。
途中、黒い砂浜に、漆黒の岩が固まっているが見え、
まさに今流れてきた溶岩のようで、実に不気味だった。
聞けば、島中央にある活火山、カルタラ山が、只今絶賛噴火中とのこと。
日本国内には今も噴煙を上げている活火山があるが、
それまでまじかで火山の噴火を見たことはない。
せいぜい、伊豆に遊びに行く途中で、大島の火山の噴火を遠めに見ていた程度だ。
その火山は少し前に大噴火をして、今も続いているとのこと。
そう聞くと、道沿いに見える岩がすべて溶岩のように見えてきた。
そしてその日の夜。
大きな地響きとともに地震があり、ますます不安になったのであった。

モロニのシンボルとも言えるグランドモスク

 

 

◎モロニの女性はシロマニを風になびかせて

翌日、さっそく、街の様子を探りがてら布の調査に出かけた。
すぐに目に飛び込んできたのが、赤と白の大きな布を巻き付けた地元の女性たちの姿だ。
これは「シロマニ」と呼ばれる布で、80x80 cm サイズの正方形にデザインされたものが
6枚プリントされている。
それを3枚分ずつカットし、縫い合わせて使用する。
その形はまさにカンガの前駆体と考えられる「レソ」と酷似しているのだ。

モロニのシロマニショップにて。80x80の布が6枚連なっている。

80x80cmの正方形が6枚分プリントされている

街を歩くシロマニをまとった女性

海外沿いを歩く女性。

◎19世紀、スワヒリ社会で流行したレソ

1860年ごろから東アフリカ、スワヒリ社会に登場した
「レソ=lesu,leso.lesso」と呼ばれる布は、モンバサの女性たちが
スカーフを3枚つづりⅹ2 枚つづりを縫い合わせて一枚布として仕立てた布で一時期流行した。
レソという言葉は、ポルトガル語のハンカチーフを意味する「lenço」 が由来とされている。
ハンカチーフは、ポルトガル時代、東アフリカにもたらされ、
1850年代後半にはフランスから大量に輸入されていた。
スワヒリの女性たちは、そのデザインが新しく、色鮮やかであるほど満足し、
自尊心や優越感に浸れたという。
20世紀書初頭に編纂されたスワヒリ語の辞書には、「leso」の項目に
「leso ya kushona」という言葉が載っており、
「カンガを作るためのハンカチーフを3枚x2 枚縫い合わせたもの」と説明されている。
そのほか、19世紀に東アフリカを探検したスタンレーの記録や
宣教師などの記録から、レソがカンガの前駆体と考えられる。

19世紀末頃ザンジバルの下層階級の女性たち。左端の女性がレソをまとっている。写真はザンジバル古文書館で入手©Zanzibar National Archives

 

◎モロニでは全身をすっぽり覆う布としても活躍

さて。

モロニの街中にあるシロマニの販売店では、赤と白だけでなく、グリーン系、ブルー系、
ブラウン系などさまざまな色あいのものが売られていた。
店主によれば、インドや中国からの輸入が多く、ンズワニ島には
中国系の輸入会社があるという。

シロマニは、普段、カンガのように洋服の上にまとうのが一般的だ。
また、礼拝の時などは、頭からすっぽりかぶるようにして、
淵の隙間から目だけを出す着装をするそうだ。
プレゼントとして贈ったり、結婚式の際の親族一族、
制服のように使用したりすることあるという。
この点、カンガと使い方が実に似ているのである。

 

モロニの町の雰囲気はスワヒリそのもの

シックな柄のシロマニをまとった女性

正装時の着装

正装時の着装は全身を覆う。

ミラーワーク付き

インドで有名なミラーワークが施されている。

当時の大統領、アフメド・アブダラ・モハメド・サンビ氏の顔をモチーフに。政治家であるとともに宗教家でもあった。

ユニークなハサミ柄

街のシロマニショップ

◎東アフリカのカンガと同様に文字の書かれた布も
コモロでは、シロマニだけでなく、実は、東アフリカのカンガによく似た布もあり
日常的に使われている。しかし、その呼び名はカンガではなく、
なんと「レソ」というのではないか!!
また「シャレ」と呼ばれることも多く、これはショールが語源だという。
ケニアのモンバサなど沿岸部では、現在でもカンガをレソと呼ぶことが多い。
またケニアに暮らすエスニックグループの人々の間では、レソに似た言葉で呼ばれている。
東アフリカ沿岸で一時期人気を博した縫い合わせたレソも
19世紀末ともなれば、すっかり人気が亡くなったまう。
女性たちの関心はもっばら一枚布のレソもしくはカンガへと
移っていったのだ。
そんな流通業者はコモロに市場を見つけたのだろう。
この「レソ」もしくは「シャレ」と呼ばれている布には、
文言が入っているものもと入っていないものがあり、前者はインド製、後者は中国製だという。
布の品質は薄く、のりが少しついていて、
タンザニアやザンジバルで流通しているインド製の廉価品に似ている。
モロニの女性たちは文言の意味にはさほどこだわっていないという。
文字は、コモロ語でプリントされており、スワヒリ語に似ている単語も見受けられた。

 

コモロ語で文字が書かれている。

この布に書かれている文字をスワヒリ語に訳すると 「Ninapoanza harusi furahieni」 結婚式を迎えたら喜んでください

布の質は薄い綿。

言葉をスワヒリ語に訳すると 「Mpenzi wangu ana sifa zote」私の恋人にすべての賞賛を

これらの文字を見ると
「HAROUSSIN」と「Harusi=スワヒリ語で結婚」や
「SUFAA」と「Sifa=スワヒリ語で賞賛、評判の意味」が似ていることがわかる。
スワヒリ語の「(h)arusi」や「Sifa」はいずれもアラビア語起源なので
似ているのかもしれない。

モロニの町にはスワヒリ語を話せる人も比較的多かったことも助かった。
親戚がザンジバルにいるという人もいた。
住民はイスラーム教徒で、町にはモスクも多く、
このコモロもスワヒリ文化圏の一角であることを実感した。 
女性たちの布に対する意識や価格などからやはりシロマニが
最もプライオリティが高いようであった。
19 世紀末に東アフリカ沿岸ですたれた布が、
インド洋を超えてこのコモロで生き続けていたことは大きな驚きでもあり、喜びでもあった。

 

コモロ諸島の旅は、本当は、あの絵葉書のアンジュアン島まで足を延ばす予定だった。
だが、あまりに地震が多いうえ、地熱でどこの道路も熱く、
常にうっすらと地響きが聞こえているのがとても恐ろしく、
予定を3日縮めて早々にダルエスサラームに舞い戻ったのであった。
やはり地震は世界のどこにいても怖いのである。

◎コモロの旅から8年後

コモロの旅から8年後、ザンジバルで起きた偶然も印象深い。
以前にも紹介したが、ある日、市場近くを歩いていたところ、
レソをまとった女性の姿に遭遇したのだ。
急いで追いかけた話を聞くと友人からもらったそうだ。
私がどこかに売っていない訊ねたところ、まわりにたむろしていた人々も協力してくれて、
あるお店に連れて行ってくれた。
そこは市場に近いお店で、そこにはわずか一枚のみ残っていたものを入手することができた。
それはモチーフに沿って金糸が施されているとても豪華な布だった。
店主が、この布を「レソ」ではなく「カンガ」と呼んでおり、
一般的なカンガも「カンガ」だと話していた。

ザンジバルの市場近くで出会った女性。まさにコモロのシロマニの着装

[コモロ話のおまけ]

女性たちはサンダルウッドでスキンケア

モロニで出会った多くの女性が、顔に薄茶色の粉を塗っていた。
きけばサンダルウッドの粉で、日焼け止めやスキンケアとして塗っているという。
シロマニショップのおばさんも、道端でとてつもなく大きなビスケットを
販売していたお姉さんも、みんな薄茶色の顔。
最初、見たときは、びくっとしたのを覚えている。
いわば、日本における日焼け止めクリームのような存在なのだろうか。
このスキンケアが、いつ、どのような経路でコモロに伝わったのかも興味深い。

 

大きなビスケット売り

 

※この記録は2007年に取材に訪れた時のものです。記憶や記録に誤りがあるやもしれません。
ご意見ご指摘をいただければ幸いです。